第35回青梅マラソン 回想(介走)録(UPDATE:2001/7/3)
まあ物には話の順序があるので、まだお読みでない方は31回からお読み下さい。
父の入院、そして別れ
11月9日
長いこと、肝硬変を患っていて、1年おきくらいに入退院を繰り返していた父が又入院した。
病院はオフィスからの帰りに寄れる所だったので、仕事さえ片付けばお見舞いに寄るのはさほど大変なことではないのだが、問題はお仕事のほうで、退社平均時刻は21:45、病院の入口が閉まるのが20:00ってわけでなかなか顔を出せない。
過去の入院の際には、「まあ大丈夫だよなあ」という思いもあって気にはしていなかったが、なんか今度ばかりは少しでも顔を出しておこうという気がした。
休日には走っていた上水沿いの道を走らなくなって1ヵ月。
暮れも押し迫った頃、大きな仕事が入って、病院さえ寄れなくなった。
12月30日
久しぶりに病院へ行くと、父の意識が無くなっていた。
肝機能がまったく無くなってアンモニアが脳にまわってしまったのである。
医者の診断では、再び意識を取り戻すかどうかは分からないということであった。
正月、父が意識を取り戻し、かすれた声を出した。
もう1度、眼と眼を合わす事ができて本当によかった。
土・日も仕事が入るようになった上に、大学のゼミのOB会の幹事や親子コンピュータ教室の講師やら引き受けてしまっているのはどうしてだろうか?
父の見舞いに専念できない自分が歯がゆくもあるが、この性格も間違いなく父譲りのものなのだろう。
物心ついたときから仕事をしている父しか知らない。
ずっとその背中を見てきた。
1月も終わろうというとき、青梅マラソンへの参加を断念した。
とても練習なしで走れるレースではない。
2月18日
病室のTVのニュースで青梅マラソンの画像が流れた。
「今日は青梅マラソンだったんだよ」と言うと。
「ああ、そうかすまなかったなあ…」と父が言った。
混濁した頭でも、気にしてくれる父に感謝した。
3月25日
幾度かの生死をさまよって3月25日、日曜日10:07
次男の小学校の卒業式も山ほどあった仕事も片付いたときであった。
最後まで、僕に気を使ってくれたのかもしれない。
「お父さん、お疲れ様でした。いろいろとありがとう」
青梅マラソンとは関係ないので、読み始めてしまた方には申し訳ないのですがこれが今年の僕の記録です。
一般30キロ 男子の部
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